日本で、北欧陶器メーカーといえばARABIA FINLANDを思い浮かべる人が多いのではないでしょうか? ムーミンマグを始めとして、アラビア社は大変人気のあるメーカーです。 実は、スウェーデンのロールストランドと非常に関係が深いと知っていましたか? アラビア社のホームページから、創業時、及び「雑貨屋すいす」で主に扱っているヴィンテージ商品の時代、1950-70年代の歴史を抜粋しました。

1873年
最初のアラビア社の、磁器・陶器やその他の作品を製造する工場群は、1874年にヘルシンキ北部の郊外のARABIAという場所に建てられました。その工場群は、1873年11月25日に、フィンランドに子会社を作ることを上院で許可されたスウェーデンの陶器メーカーRörstrandロールストランドに委託されました。1974年10月に生産が開始されました。当時のフィンランドでは、セラミック(陶磁器)製品の独自生産はまだ限られたものでしたが、経済ブームの高い成長もあり需要も高まりました。スウェーデンのロールストランド社は、実際のところはロシア市場に興味があったのですが、フィンランドのアラビア工場は、簡単にアクセスできる上、低い関税だったのがその創立の理由となりました。熟練労働者はスウェーデンから呼ばれ、他のフィンランドの陶器から募集された職人がその補充をしました。1875年初頭には、アラビアはすでに110人を雇っていました。ほんの数年のうちに、工場からの生産量の値は全国の年間陶器生産量の半分を占めています。

そうなんです。アラビア社は、創立時はロールストランド社の子会社だったのです。 さてここからは、かなり時代をスキップさせてもらって、、、、

1950年代
1950年代にアラビアの製品範囲が徹底的に改良されました。 1953年に市場に参入したKaj FranckのKiltaシリーズは、この近代化プロセスの代表的な例でした。当初は、製品にフィンランド各家庭が必要としているかもしれないキッチンウエアに関しての、全く新しいコンセプトが含まれているため、改良された製品を売るのは簡単な仕事ではありませんでした。このことは、アラビアが現代のコミュニケーションと一般市民の教育を含む諮問業務、相談、報道機関の領域に入ることのきっかけとなりました。ヘルシンキのエスプラネードのショールーム/アウトレットは、今でも同じ場所にあり、一般に公開されています。 1951年、1954年と1957年にアラビアのアーティストはミラノトリエンナーレで数々の賞を受賞しました。 Gunvor Olin-Grönqvist、Liisa Hallamaa、Brita Heilimoはインダストリーアート部門で働き始めました。Oiva Toikka、Francesca、Richard Lindhはアート部門に勤務しました。海外から芸術家を招いて、アート部門で働いてもらうこともありました。輸出販売では、代理店を使用して小売業者に商品を販売する代わりに、輸入業者に自社の倉庫から小売店に直接商品を引き渡すよう委託する習慣を放棄しました。焼成技術は、オイルを採用することによって近代化されました。 Kiltaのアレンジの範囲に、AR-Heini(Kaarina Aho / Raija Uosikkinen 1957)とUllaProcopéのLiekki dishes(1958)も含まれています。 1950年代の終わりに、アラビアは転写陶磁器のために独自のセリグラフ印刷作品を制作しました。

1960年代
新しい生産材料、ストーンウエアが、アラビアの家庭用製品に導入されました。新しい素材で作られた最初の食器セットは、世界的に有名なUllaProcopéのRuskaでした。 1969年にBirger Kaipiainenによって作り出されたParatiisiシリーズは多くの人に愛されました。彼の人気は海外にも広がっています。彼の手掛けたBead Birdsはミラノ・トリエンナーレで一般大衆を魅了し、1960年にグランプリを獲得しました。Birger KaipiainenのOrvokkimeri(Violetsの海)は、1967年にモントリオールで開催された世界フェアで発表されました。プレート用のローラー成形機とカップ用の完全自動成形機は、1959-1961年の生産を増強しました。 1967年に導入されたカップ用の完全自動成形ユニットは、さらに効率を高めました。Valenciaバレンシア(UllaProcopé1960)、BK-Paratiisi(Birger Kaipiainen 1969)、Palapeli(Kaarina Aho 1964)、SN plant pot(Richard Lindh 1964)、GB restaurantrange(GöranBäck1968)、HeljäLiukko-Sundström、Inkeri Leivo、Anja Jaatinen-Winquist、Peter Winquistの6人の新しいアーティストがアラビアに雇われました。

Ulla ProcopeデザインによるFennicaシリーズは、落ち着いたサンドカラーにダークブラウンのラインだけというシンプルなデザインだが、内縁の高さを出したりと小技が効いている。
Raija Uosikkinenの手によるパラスは、繊細なタッチの特徴的な北欧モチーフが使われており、面取りされたようなフォームも素敵

1970年代
1970年代のアラビア工場で行われた最も重要な近代化の1つは、1979年に新しいキルンホールに自動成形ラインと2つのトンネルキルンが完成したことでした。Inkeri Leinoの純粋な白いArcticaは、新素材のインビトロ磁器を使って、初めてトンネルキルンから製造されたテーブルウエアのセットです。アーティストのFrancesca Lindhは、新しいキルンホールからElämänpuu(Life of Tree)をリリーフしました。衛生陶器の製造は、1971年にTammisaaren Posliiniに移管されました。1971-1977年の間、Nuutajärven Lasi(Nuutajärvi Glass)とJärvenpään Emali(Järvenpää Enamel)もアラビアの商標を使用しました。石油危機(オイルショック)と安価な輸入によって引き起こされた問題は、人員削減と製品範囲の縮小をもたらしました。それらはまた、アラビアとRörstrandの間のマーケティングにおける3年間の協力関係(1975-1977)の理由になりました。 Raija UosikkinenによるKalevalaテーマの年間生産は1976年に開始されました。食器の新しいラインにはM-Karelia(Anja Jaatinen-Winquist 1970)、EH-Faenza(Peter Winquist 1973)、Tea for Two(Gunvor Olin-Grönqvist 1978年)およびArctica(Inkeri Leivo 1979年)。アーティストPaul EnvaldsとPauli Partanenはアラビアに雇われました。

1950年から70年代は、皆さんお馴染みのヴィンテージ・アラビアとして有名な数多くの名作テーブルウエアが製造されました。また多くの北欧出身の工業デザイナーが、欧州全域で活躍した時代でもあります。ドイツのローゼンタール社、トーマス社などは、いち早く北欧デザイナーを採用し、多くの名作シリーズを製造しました。ヨーロッパでもこの時代のテーブルウエアコレクターが多く、日々適正価格で探すことが難しくなっています。

内容についてですが、私自身がホームページの英語版から翻訳したので、間違いがあるかもしれませんがご容赦を。

私が店主を務めるショップ「雑貨屋スイス」では、アラビア社のヴィンテージ品を扱っていますので、ご興味のある方は是非訪ねてください。

関連記事

「雑貨屋すいす」特集記事から~「Villeroy & Boch社について」

ACF Italy バリスタに愛されるメーカー

そして、Glasi Hergiswilに行ってみた。

スイス最後のガラス工場、Glasi Helgiswil

《北欧メーカー》Bing & Grondahl ビングオーグレンダール  Tema と Columbia

Höganäs keramik ホガナス ケラミック社について

コメント

コメントを返信する

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください